名人戦黎明期を振り返る。

どうもstsです。

先日、藤井聡太竜王渡辺明名人を破り、新名人となりました。実力制以降では16人目の名人の座に就き、史上2人目の七冠王になるとともに、史上最年少で名人の座に就いたことは大きな話題を呼びました。

名人戦は将棋界では最も古いタイトル戦であり、竜王と並ぶ将棋界最高峰のタイトルとして有名です。そこで、今回はその名人戦の黎明期の歴史を振り返ってみたいと思います。関根金次郎十三世名人が名人位を返上して新たに始まった実力制の名人戦。その黎明期はどうなっていたのでしょうか。振り返っていきましょう。

それではさっそくどうぞ!

※以下の文章では敬称略とします。

 

【第1期名人決定大棋戦】

①初代実力制名人を決める戦いがスタート

関根金次郎十三世名人が名人位を返上。これにより新たな実力制名人を決めるべく、当時の全八段の棋士7名でリーグ戦を行うこととなりました。参加者は以下の7名。

・土居市太郎八段(関根名人時代の実力No.1。後の名誉名人)

・木見金治太郎八段(関西出身の大御所棋士升田幸三大山康晴の師匠)

・大崎熊雄八段(日本将棋連盟結成の立役者。多くの新聞社の将棋欄を掛け持ち。)

金易二郎八段(棋士番号1。後の名誉九段)

・花田長太郎八段(終盤の花田、塚田正夫の師匠)

木村義雄八段(中盤の木村、当時史上最年少の八段昇段)

金子金五郎八段(序盤の金子、将棋世界初代編集長)

この7名で2年間かけてリーグ戦を行い、実力制初代名人を決めるリーグ戦が始まることとなりました。

 

②関西棋士の反発、神田事件勃発

この「第1期名人決定大棋戦」に出場した八段7名は全員関東所属の棋士でした。当時は「将棋の本流は関東」という考えがありました。そんな中、関西の「十一日会」に所属し、実力No.1と呼び声の高い神田辰之助七段を参加させたいという声が関西からあがります。

そこで神田七段をリーグ戦に参加させるか否か、それを決めるべく関東の全七段と全八段との対局を企画します。「全七、八段戦」と呼ばれるこの対局は、神田七段から見て、七段との対局は3勝4敗と負け越しなかがら、八段との対局は7戦全勝という結果を残しました。

そこで八段に昇格させるべきかの評議会が開かれます。しかし結論はまとまらず、紛糾。神田七段の八段昇格に賛成派だった花田八段と金子八段は日本将棋連盟を脱退。新たに「将棋革新協会」を立ち上げ、神田七段の八段昇段を承認しました。この神田七段の八段昇段を巡る一連の出来事は「神田事件」と呼ばれています。

 

③手打ち式を行い、和解。リーグ戦再開へ。

残留組は、リーグ戦の続行をしようとするものの、花田八段や金子八段がいなくなっては、世間は納得ができないという面がありました。そこで十三世名人の関根金次郎とその兄弟子であった小菅剣之助が仲介役となり、再び分裂した団体を繋げます。

そして昭和11年6月、将棋連盟・革新協会・十一日会で手打ち式を行い、新たに「将棋大成会」を立ち上げ、新たな船出となりました。

この三団体を結び付けた小菅には功績をたたえ、後に「名誉名人」の称号が贈られることとなります。

 

④西の名人、坂田三吉の登場

手打ち式を行い神田八段と新たに八段に昇段した萩原淳八段を加えた9人となり、第1期名人決定大棋戦は再開。リーグ戦は以下の9名で行われます。

・土居市太郎八段(関根名人時代の実力No.1。後の名誉名人)

・木見金治太郎八段(関西出身の大御所棋士升田幸三大山康晴の師匠)

・大崎熊雄八段(日本将棋連盟結成の立役者。多くの新聞社の将棋欄を掛け持ち。)

金易二郎八段(棋士番号1。後の名誉九段)

・花田長太郎八段(終盤の花田、塚田正夫の師匠)

木村義雄八段(中盤の木村、当時史上最年少の八段昇段)

金子金五郎八段(序盤の金子、将棋世界初代編集長)

・神田辰之助八段(当時の関西実力No.1。「闘将」。)

萩原淳八段(神田事件中の八段昇段で参加。後の日本将棋連盟会長。)

リーグ戦が折り返しを迎えた頃、読売新聞の菅谷北斗星氏の働きかけにより、関西で「名人」を名乗った坂田三吉が名乗りをあげます。そこで再開したリーグ戦でリードしていた木村八段と花田八段との対局が組まれることとなります。連盟側からすると、この対局で坂田三吉に敗れると名人という最強を決める戦いが水泡に帰す可能性すらあり、難色を示します。

しかし木村は「坂田ー木村戦が一局もないというのでは後世の批判を受ける」花田は「会の了承が得られぬなら、脱退しても指す」と話し、関東の最強棋士二人VS関西の名人という歴史に残る好カードが組まれました。

 

南禅寺の決戦、天龍寺の決戦

歴史に残るこの戦いは、今なお語り継がれる異例の形式で行われます。持ち時間30時間、対局日数は1週間、対局中の外出禁止となりました。

木村ー坂田戦(南禅寺の決戦)は坂田が2手目△9四歩と突き、花田ー坂田戦(天龍寺の決戦)では坂田が2手目△1四歩という衝撃の2手目を指します。この両対局は対局形式はもちろんですが、坂田三吉の2手目の衝撃度も相まって、将棋ファンなら誰もが知る対局となりました。

結果は木村八段、花田八段の勝利、関東の棋士が勝つ結果となりました。

 

⑥木村が初代名人に

南禅寺の決戦、天龍寺の決戦が終わり、リーグ戦はいよいよ終盤へ。やはり初代名人の座を争うこととなったのは、木村と花田の二人でありました。

最終的には木村が花田を突き放し、断トツの成績を残し、終了。見事実力制初代名人の座に就くこととなった。

第1期名人決定大棋戦が始まり、神田事件、分裂騒動、手打ち式、南禅寺の決戦・天龍寺の決戦と様々な出来事が巻き起こった中での第1期名人の座は木村義雄八段が就くこととなりました。

 

以上のようになっています。

実力制の初代名人を決めるに当って、前途多難な道のりがあったことがわかります。これだけ多くの出来事が起こるということは、それだけ実力性の初代名人を決めるというのが大きい出来事だったんだと実感できます。

また初代名人を決めるにあたり、様々な新聞社が色々な企画を立てて盛り上げていたこともわかります。ここから現在まで続く第1期の名人戦はこのような形で決まり、現在に繋がっていきます。

 

※参考文献

加藤一二三著『将棋名人血風録 奇人・変人・超人』

 

日本将棋連盟ホームページ「将棋の歴史」

www.shogi.or.jp

順位戦データベース「名人戦の部屋」

www.ne.jp

 

※続きの第2期、第3期の名人戦の記事はこちら。

oknsts1018.hatenablog.com