名人戦黎明期を振り返る③

どうもstsです。

今回も前回に引き続き名人戦黎明期を振り返っていきます。

第1期は様々な出来事が起こった中、リーグ戦を制した木村八段が初代名人に就き、第2期では関根十三世名人時代の実力No.1の土居八段、第3期では関西で実力トップの神田八段を破り、木村名人が3連覇を果たしていました。今期は第4期と第5期を振り返ります。

さて、過去の名人戦一覧を見ると、第4期と第5期の挑戦者のところを見てみると「挑戦資格者なし」となっていたり、空欄になっていたりします。実際に日本将棋連盟のホームページ、名人戦の「過去の結果」の欄を見ると空欄になっています。

なぜ第4期と第5期の名人戦は挑戦資格者がなしとなったのか、なぜ行われなかったのか、気になりますよね。ということで見ていきましょう。

さっそくどうぞ!

 

【第4期名人戦

①第4期でもルール変更

第4期の挑戦者を決める戦いは大幅に変更。16名の棋士によるトーナメントを半年に1回行い、その優勝者は木村名人と予備手合三番勝負を行い、そこで勝ち越すことができれば挑戦権を得れるというものでした。

予備手合三番勝負は半香落ち→平手→振り駒(先手なら平手、後手なら半香落ち)で行うおので、そして、もしこの挑戦権を得る棋士が複数名いた場合はその棋士プレーオフを行うルールでした。

当時は名人戦で木村名人の棋譜を見るためには、七番勝負開催までの2年間待つ必要がありましたが、このルール改正により最低でも半年に1回は見れることとなり、ファンにとっては喜びが増える形になりました。

 

昭和18年、木村名人が三番勝負で勝利。

第1回目の予選は第2期名人戦のリーグ戦では2位となった萩原淳八段が挑戦権を獲得。木村名人との三番勝負に挑みます。第1局の半香落ちの対局では、千日手指し直しの末木村名人の勝利。第2局の平手の将棋も木村名人が勝利。

第2回目の予選では前期ベスト4まで残っていた大野源一八段が挑戦権を獲得します。「振り飛車名人」と呼ばれる大野八段が予備手合戦に進出します。第1局の半香落ちでは勝利を収め、挑戦権獲得まで王手を掛けます。しかし第2局の平手の対局で敗れ、第3局の平手では千日手に。指し直し局は半香落ちの対局となりますが、それを制したのは木村名人。再び予備手合三番勝負を制しました。

昭和18年の予備手合三番勝負は上記のように木村名人がどちらも勝利し、挑戦権を獲得した人は現れませんでした。名人挑戦権を得た棋士と名人が対局して、名人側が半香落ちで勝利する、木村名人がいかに突き抜けて強かったかわかるエピソードだと思います。

 

昭和19年も木村名人が三番勝負で勝利。挑戦資格者は現れず。

昭和19年に入り、第3回目の予選を開催。この予選を勝ち上がったのは花田長太郎八段。第1期名人を決めるリーグ戦では木村名人とともにリードしていた花田八段が予備手合三番勝負へと進みます。注目の三番勝負は、第1局の半香落ちでは木村名人が勝利、第2局の平手の対局も木村名人が勝利。2連勝でまたしても木村名人が予備手合を制します。

いよいよ最後となる第4回の予選。ここでの予選を勝ち上がったのは坂口允彦八段でした。第4期名人戦の挑戦権を決めるトーナメントでは好成績を収めていた坂口八段がついに挑戦権を獲得しました。三番勝負の第1局では半香落ちの対局を木村名人が勝利、続くの第2局の平手の対局も木村名人が勝利。なんと2回連続の2連勝で予備手合三番勝負を勝利しました。

昭和19年の予備手合戦も木村名人が勝利。しかもこの年は一度も負けることがなかったという驚愕の強さです。昭和18年~19年までの4回の予選勝利者を全て跳ね除け、挑戦資格者を得る棋士は現れず、七番勝負は開催されず防衛扱いとなりました。これが第4期の挑戦資格者なしの理由です。

 

【第5期名人戦

①選抜棋士による予備手合制に変更

第5期の名人挑戦者を決めるための戦いはさらにルール変更。第5期でも予備手合制を導入しますが、予備手合制の対局に出場する棋士は予選突破棋士ではなく、近年の生清優秀者7名の棋士。選抜された状態でのスタートだった。

選抜された棋士は以下の通り

・花田長太郎八段(前期挑戦候補者。「終盤の花田」。)

金子金五郎八段(「序盤の金子」。将棋世界初代編集長。)

萩原淳八段(前期挑戦候補者。「闘将」。)

・坂口允彦八段(前期挑戦候補者。「クロガネ」。)

塚田正夫八段(花田の弟子。後の名誉十段。)

大野源一八段(前期挑戦候補者。「振り飛車名人」。)

加藤治郎七段(大学出身者初のプロ棋士。後の名誉九段。)

この7名が木村名人と半香落ち→平手→平手の3局を指し、勝ち越すことができれば名人挑戦資格者となり、複数名出た場合は、プレーオフとなる。

 

②戦争激化により中止に

名人挑戦者を決める予備手合制の対局は順次行われていきますが、当時は第二次世界大戦の真っ最中。戦争は激化の一途を辿り、対局は中止。挑戦者を決めることができませんでした。これが第5期における「挑戦資格者なし」の理由です。

戦争により名人挑戦者を決めることができないため、名人戦の七番勝負も実施されませんでした。その結果、木村名人の防衛扱いとなり、5連覇となっています。

七番勝負を対局せず防衛というのは腑に落ちない人もいるかもしれませんが、当時の木村先生の圧倒的な強さがあるがゆえの扱いともいえます。

 

以上のようになっています。

「挑戦資格者なし」の真実は

・第4期名人戦→木村名人が予備手合三番勝負で全て勝利したため

・第5期名人戦→太平洋戦争激化のため

でした。

それにしても第4期名人戦における予備手合三番勝負では予選突破棋士全員に半香落ちで勝利を収めており、桁違いの強さを見せつけています。今はプロの公式戦では香落ちの制度がないため、名人と新入りの四段でも平手で対局することはありません。しかし当時のトップ棋士のトーナメント勝利者と香落ちで対局してほぼ毎回勝っていたという圧巻の強さで、「十年不敗」と言われた木村名人の強さを表すエピソードですね。

ではまた!

 

※参考文献

日本将棋連盟ホームページ『将棋の歴史』

www.shogi.or.jp

 

順位戦データベース「各期名人戦

www.ne.jp