どうもstsです。
今回のテーマは「将棋」です。
今回はその中でも将棋の純文学、矢倉がテーマです。矢倉といえば、若手時代の升田幸三実力制第四代名人、大山生康晴十五世名人から加藤一二三九段、米長邦雄永世棋聖、中原誠十六世名人先生、そして現役で戦っている谷川浩司十七世名人、羽生善治九段、森内俊之九段、渡辺明名人・・・と歴代の名棋士達も得意としてきた戦法です。
そして今回は平成の将棋界に限定して矢倉で流行した戦法についてざっくりとまとめてみました。
それではさっそくどうぞ!
【森下システム】
平成初期に誕生した戦法。玉の囲いを最優先にして、相手の動き方を見てから自分の戦法の方針を決めるという後出し的戦法。平成初期は森下システムと▲4六銀▲3七桂型が矢倉の二大戦法だった。『羽生の頭脳』にもこの森下システムが取り上げられている。
しかし後出しで自らの戦法を決められる融通性のある森下システムに対策が。一目散に玉を書こうというところに目をつけられ、雀刺しが天敵となる。かつて流行した戦法(雀刺し)が、新たな戦法(森下システム)の対策として蘇るのは時折起きる現象。雀刺しで一方的に先攻されては、後出しも何もなく人気の座を▲4六銀▲3七桂型に譲った。
現在は雀刺しの対策も確立されたが、矢倉党が▲4六銀▲3七桂型に流れたこともあり、見る回数は減ったが、またいつか日の目を浴びることを信じている矢倉ファンも多いのでは。
【▲4六銀▲3七銀型】
初期は上記のように森下システムと同時期に活躍した戦法の一つ。先手が飛車・角・銀・桂馬・香車を使って全力で攻めかかり、後手は金銀4枚で徹底防戦するのがこの形の特徴だった。
一時期は全力で攻める先手が高勝率を誇り、今にも切れそうな攻めを繋げて相手玉を追い込んでいく様は、平成将棋界を象徴する戦い方ともいえる。定跡もかなり深い所まで掘り下げられ、「矢倉91手組」と呼ばれる先手勝ちの定跡まで作られた。
先手が攻め切るのか、後手が受け切るのかで結論が出ると思われていたが、ソフトの影響で現れた△3七銀のpona新手やそもそも▲4六銀▲3七桂型に組ませないという△4五歩反発が登場で姿を消した。戦法名も「▲4六銀▲3七桂型」という類の名前のみでこれといった戦法名が最後までつかなかった戦法でもあった。
【脇システム】
脇兼二九段開発の戦法。森下システム、藤井システムと並ぶ、いわゆる将棋界の「三大システム」の一つ。戦後互いにまったく同じ陣形で4六と6四に移動させた角が睨み合うのが特徴。
元々は2000年代初頭、脇先生が多用して隆盛を見せ、プチブレイク。棒銀の攻めと交換した角を敵銀の4一や6一に打ち込んで攻め込むのが特徴。この戦法もかなり深いところまで掘り下げらていたが、やはり▲4六銀▲3七桂型の方が流行し、勝率も高かったため、主役とはならなかった。
しかし▲4六銀▲3七桂型が廃れ、飛車先不突矢倉から序盤早々に飛車先の歩を突っ切る形が主流となった令和矢倉において、脇システムが大復活。最初に流行したのは平成だが、令和に入り升田幸三賞受賞するにまで至っている。
【藤井流矢倉】
平成後期に現れた戦法。この藤井流矢倉の藤井は藤井聡太竜王ではなく、藤井猛九段。元々は藤井システムを武器に活躍していた藤井猛先生。しかし藤井システムが対策され始めると、突如して矢倉を連採。振り飛車だけでなく、居飛車でも革命を起こした。
藤井流矢倉は脇システムと矢倉早囲いを組み合わせた独自の戦法。普通の矢倉ではなく早囲いから片矢倉に組むため、角の打ち込みに強いのが特徴。当時の主流はやはり▲4六銀▲3七桂型だったが、研究がかなり深く研究されており、理解するのも大変だったが、藤井流矢倉は狙いもわかりやすいため、プロアマ問わず好む人が多かった印象。
この藤井流矢倉は飛車先を突っ切る形のため、現代矢倉でも採用されることもある。現在は後手が急戦策を取ることも多いため主役の座ではないが、今後主役の座に登り詰めていく可能性も秘めているのでは個人的に思っている。
【左美濃急戦】
平成の終わりごろに現れた矢倉最大の敵にして、最悪の敵。元々はコンピュータ将棋で登場し流行っていた戦法。対振り飛車で使う左美濃囲いの急戦との差別化をはかるため、「居角左美濃急戦」と呼ばれることも。「矢倉の5手目は▲7七銀か▲6六歩か」という全矢倉党に課せられた命題に決着をつける形となった。
左美濃急戦は角を動かさずに左美濃に手早く囲い、桂馬・銀・飛車に加え、角のラインを活かして攻めかかるという戦法。先手は矢倉という手数のかかる囲いに囲っている間に一気に集中砲火を浴び、反撃しようものにも相手の左美濃が固いという状態になる。
この左美濃急戦は6筋の歩をぶつけて開戦するため、先手矢倉は争点を作らないために5手目は▲7七銀、また他の急戦も警戒するためにも。6筋5筋の歩を突くのを遅らせ、飛車先の2五までの突っ切りが絶対条件となり、令和の矢倉へとつながっていった。
森下システム・▲4六銀▲3七桂型
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▲4六銀▲3七桂型
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▲4六銀▲3七桂型・脇システム
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▲4六銀▲3七桂型・藤井流早囲い
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▲4六銀▲3七桂型対策登場(△3七銀pona新手、△4五歩反発型)
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左美濃急戦登場
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▲7七銀、▲2五歩突っ切り、5筋、6筋の歩の保留。
以上のような流れになっています。
基本的には▲4六銀▲3七桂型が平成の将棋界はメインでありその研究が中心に進んでいました。しかし平成終わり後頃に左美濃急戦が現れ、矢倉はまた新たなステージに突入しました。
令和の矢倉は後手からの△6五桂急戦や△7二飛からの袖飛車急戦、さらには最初に流行ったのは昭和の米長流急戦矢倉など、急戦策で後手が迎え撃つことが多くなり、金銀3枚でガッチリ囲い合う矢倉は減りました。
しかしガッチリ囲い合う矢倉も、昔からいわれているように金銀3枚で囲い、飛車角銀桂香を使って攻めるという将棋の基本ともいえる部分が多く詰まっており、まだまだ指され続けています。
令和の将棋界の矢倉も形をさまざま変えながら指され続けていくでしょう。令和の将棋界の矢倉という戦法にも注目です!
ではまた!
※平成将棋についてまとめた別記事は他にもあります。是非ご一読下さい。